《天界より見下ろすドラゴン・ケセファリス》の社会的機能

論文

※本稿はイングランド魔術師団在籍のケネス・バッキンガム(Kenneth Backingham, CH PhD FBA AR)による2015年の著書“Style and Function of dragon arts(邦訳題:『ドラゴン絵画の様式と機能』)”に基づき行なわれた、2021年の基礎研究(A)「イングランド魔術師団所蔵絵画群の図像的・社会的・魔法化学的分析」の成果として提出した論考である。魔術師が魔法の世界の外から、ドラゴンを描いた作品群を純粋な美術作品として観察・分析したバッキンガム氏の著書は、魔法美術研究において大きな功績を残したが、「ドラゴンひいては魔法そのものに対する疑念を生じる恐れがある」として、2022年末を以て英国魔法省文部大臣より禁書指定された。筆者は学問的な美術探求が政治によって妨害されたことに対し強く抗議し、改めて魔法魔術学会へと本稿を寄稿する。なお著作権の都合により、図版は省略する。

はじめに

 ロンドン郊外に存在するイングランド魔術師団の拠点、ヤードバード聖堂(Yardbyrd Cathedral)はドラゴンを描いた魔法絵画を数多く保管している。1888年のウィーン魔法学術団によって所蔵作品の整理が行なわれたときには、既にそれらの大半がお互いに攻撃しあっていたことで破損・自損被害を被っていたが、ある作品は唯一無傷で保存されていた。その作品とは、イタリアより移住しイングランド魔術師団の一員となった画家、ピエトロ・アレッツィ(Pietro Marzio Arezzi, 1462~1508)による油彩画《天界より見下ろすドラゴン・ケセファリス》(以下《ケセファリス》と省略する)である1
 魔法界において、ドラゴンは古来魔術師の力の源として、英国内にとどまらず、ユーラシア大陸西部の幅広い地域で神聖視されてきたことは広く知られている。紀元2世紀後半、古代ローマ時代のギリシア古魔術団で編纂され、今日の魔法哲学の基礎となった『マゴイ倫理学』にも挿入されている「竜の福音(Ευαγγελιο του Δρακου)」と名づけられた断章が、いわゆる魔法界におけるドラゴン信仰の始まりを表すとされる2。これをはじめとして、中世のフランスで小規模な結社を立ち上げた詩人アンリによる叙事詩『翼の民の詩(Poésies du Homo Ailes)』、ロンバルディア地方のラ・ヴェルトロ城砦の地下に収められた無名の魔法画家による大規模なフレスコ壁画《邂逅(L’Incontro)》などのように、ドラゴンに対する信仰はさまざまな芸術の形態をとりながら連綿と受け継がれてきた。
 その中でも、本稿の研究対象である銀色の龍ケセファリスは、プランタジネット朝イングランド王国の時代に成立した、魔術師であり詩人のジョン・スキャンター(John Cliff Scaenter, 1112?〜1188?)による英雄叙事詩『薔薇の詩』に登場する。この叙事詩はイングランドにおける魔術師の起源神話集成であり、スキャンターの存命中こそ幅広い支持を得なかったものの、彼の死後、フランス魔術師団へ派遣された一団が大陸に持ち込んだことで、現地で文学として人気を獲得した。結果今日に至るまでヨーロッパ各地で増版が繰り返されるほどの、時代と国境を越えるベストセラーとなった。
 物語においてケセファリスは、先史時代のブリテン島に暮らす羊飼いダミアーノに智慧を授けて魔術師となした。これによりダミアーノは「火に勇み、水に親しみ、風に歌い、大地に踊り、大いなる力を得」たが、世の理を外れた魔法に畏れを抱き、またブリテン島の社会への影響を懸念したため、人里離れた森の中で密かに修行に励んだ。彼はその「尋常ならざる力」をあくまで利他目的で使用することをケセファリスに誓い、ケセファリスはダミアーノに試練を与える。ダミアーノは「故郷を脅かす東からの大群」を、人前に姿を見せることなく、二度にわたり駆逐したが、決してその成果に驕らず、再び森に戻る3。かくしてダミアーノの魔術師としての素質を認めたケセファリスは再び天界へ昇り、今尚魔術師を見守っているとされる。以上のような物語から、ケセファリスはイングランドの魔術師にとって智慧と力の象徴・源であり、また崇敬と畏怖の対象とされている。
 上記の経緯から、ケセファリスは度々絵画の主題に選ばれ、本稿で取り上げる《ケセファリス》もそれらの中に位置づけられるものである。左下に小さく描かれた石碑の「1485 D. NR」という文面から制作年代が特定され、それに合わせて大英魔法図書館に保管されている契約書により注文主と当初の設置場所も特定されている4。また後述するようにその特異な画面構成から、現在まで本作の図像源泉の探求や、主題、寓意をめぐる図像解釈が多数試みられてきた。一方で、絵画の本来の設置場所や作品の用途、もしくは魔術師団における効果といった魔法社会に対する機能の面は十分に検討されていない。これは魔法美術界において、魔術師の力の源泉である竜の図像を、作品の外部である社会的コンテクストに基づき分析することが、神聖性を疑い魔法の純粋価値を損なうとして古来タブー視されていることも大きいだろう5。しかし本稿では、あえて魔法界における美術の社会的機能について言及したい。
 本稿ではまず、15世紀のイングランド魔術師団のために制作されたドラゴン(とくにケセファリス)を主題とする作品群と比較しながら、作品に現れる図像の特殊性を指摘する。続いて、注文主であったダニエル・ド=ナルニアに送られた爵位下賜状と贈答品について、魔術師団における地位の観点から検討する。最後に、注文主の経歴に立脚して、一般世界の事例と比較しながら、図像の特異性の要因と、それに基づく作品の社会的機能について考察する。本稿は純粋な魔法美術作品として本作を客観的に分析することで、今後の魔法美術研究の一助となることを期待する。

第1章 作品の図像的特殊性

 縦64cm、横66cmのほぼ正方形のカンヴァスに油彩で着色された本作の中央には、画面右方向を向き、翼を閉じて立つケセファリスが描かれている。彼は画面の向こう側の我々には目もくれず、首を少しばかり動かしながら、常に空の遥か遠くを眺めている様子である。時折欠伸をしたり遠吠えをしたりするが、決して退屈なわけではなく、過去から未来を一瞥して見通す知性ゆえの雄大な構えなのだろう。彼は切り立った崖の上に立ち、足元では白、黄色、紫などの小さな花が風に揺れている。彼の遠く後ろにはゴシック建築を思わせる壮大な城塞があり、その周りには尖塔が多く立ち並んでいる。空は厚い灰色の雲が常に画面右から左へと流れており、その隙間から日光がケセファリスや遠景の城に射し込むこともあるが、常にその画面反対側では稲妻が走っている。
 さて本作に描かれるのはケセファリス一頭のみであり、彼が智慧を授けるダミアーノは描かれていない。しかし伝統的に、ケセファリスを描く絵画には彼より智慧を授かり、イングランドの魔術師の祖となったダミアーノが描かれる。ヤードバード聖堂で発見されたケセファリスを描く絵画の内、14世紀以降の作品は全てダミアーノを伴うものである。15世紀にはケセファリスを主題とする作品ではダミアーノが必須のモティーフとされており6、アレッツィもまた他の作品群ではその伝統に必ず倣っている。『薔薇の詩』の主人公ダミアーノはケセファリスより智慧を授かる前は一介の羊飼いにすぎなかったが、智慧を受けてからは数々の困難に立ち向かい、後進の育成に励んだ英雄である。したがってケセファリスが描かれてダミアーノが不在なのは、洗礼者ヨハネはいるがキリストの居ないヨルダン川を描いた絵画のようなものだ(洗礼者ヨハネのみを描く絵画は存在するが、それと混同はしないでほしい。本来のコンテクストで必要な要素が欠けているということだ)。このように伝統から大きく逸脱する画面構成は画家本人の意志によって決定しうるものではなく、また既に発見されている契約書の文面から、注文主であるダニエル・ド=ナルニア自身による強い意向によるという見方が現在では主流になっている7
 さらに本作品の構図的特異性は、15世紀当時の魔法絵画の潮流と比較することで更に強調される。『マゴイ倫理学』、『翼の民の詩』、『薔薇の詩』などドラゴンやそれに関連する人物について叙述した文学作品に基づく15世紀の絵画群は、一般世界のキリスト教絵画と同様に、大きく二つのジャンルに分けることができる。一方は壁画、祭壇画といった公的な場での鑑賞を前提に描かれた「物語画(Historia)」、もう一方は家族礼拝堂や邸宅の私室など私的な場での鑑賞を前提に描かれた「祈念画(Andachtsbild)」である。
 物語画は聖堂空間の装飾の他、典礼や祈りの儀式への大衆の誘いを目的とするため、一般的に大型のカンヴァスや壁面といった大きい画面に色彩豊かに描かれる。そのモティーフはドラゴンと魔術師が同時に用いられるが、ヤードバード聖堂主祭壇に設置された、フランドル出身の魔法画家ヤン・イクシオン(Jan Ixion)による三連祭壇画のように、作品が複数のパネルで構成される場合は一つのパネルにドラゴンのみ、または魔術師のみが描かれることもある。一方の祈念画は持ち主の私的な礼拝・瞑想を目的とするため、移動や持ち運びが容易になるように必然的に小型になった。また私的空間への調和が考慮されたことで豪華な装飾は排除され、少ない色彩でドラゴンと魔術師の二者を描くことが多い。
 本作の位置づけをめぐっては度々論争が繰り返されてきた。本作品は形式上は祈念画に分類されるが、その構図や色彩においては間違いなく物語画に位置するためである。ウィーン魔法学術団は発見時に「かつて存在したイングランドの聖堂に設置された祭壇画の一部かもしれない」8と推測している他、ヴェルフリンに学んだドイツの魔法美術史学者フランツ・ハルモニウス(1914)は、様式的観点から15世紀後半のイタリアで活動したルカ・ゼフィロッリ(Luca Zephyrolli)の手になるものと判断した上で、「イタリアに交流のあった者がポリプティク(多翼祭壇画)の一部としてイングランド魔術師団に持ち込んだに違いない」としている9。しかし、戦後の東西の魔術師団の交流、ニュー・アート・ヒストリーの手法の輸入、その他種々の記録資料の発見10に伴い、本作を物語画に位置付ける見方は批判されるようになった。石井(1990)による契約書の発見に続き、デュースタイン(1993)の邸宅・礼拝堂跡地調査11によって本作を祈念画とする見解はほぼ不動のものとなった。
 本作が祈念画として描かれたことは史料上明らかにはなったが、作品の画面構成に立ち返ると、もう一つの矛盾が存在する。使用されていた顔料の問題である。本作は龍と雲の灰色、大地の緑色と黄土色、空の薄青色を用いて比較的同じトーンで着色されているが、龍の目にはウルトラマリンが、龍の翼の部分には銀が使用されていることが2007年の調査12により明らかになった。絵画と顔料の関係はバクサンドールが既に指摘しているが、顔料においてウルトラマリンは金や銀に次いで高価なものであった。さらに単位量当たりの価格によって等級が分かれており、例えば1485年に制作された《マギの礼拝》の制作に当たり画家ドメニコ・ギルランダイオが交わした契約では、「さらに青色には、一オンスあたり四フロリンほどの高価なウルトラマリンでなくてはならない」という指定がなされている13。ウルトラマリンのオリエンタルな色合いと扱いにくい性質は絵の一部分を際立たせる手段となっていたし、またウルトラマリン自体が持つ魔力の強さと浄化作用から物語画に多用されていた14のである。また時代が下るにつれて一般世界で顔料の価格がさほど重視されなくなったことも見逃せない。15世紀における深刻な金の供給不足やキリスト教的禁欲主義の強化といった社会的慣習が絵画にも波及し、(全面的にではなくとも)見た目のぜいたくさを大いに抑制した。15世紀後半になると等級別の青色の使い分けが契約書の内容から消失し、アルベルティも言及していたように「あたりまえの色で黄金をの輝きを表現」できるような技術が重視された15。つまり技術を重視しがちであった時代の流れにあって、本作品は形態や設置場所から祈念画の形式を取っていたにもかかわらず、画面の中身は物語画と見紛うものだったのである。
 以上検討したように、本作には構図、形式、顔料上の特殊性が認められる。次章では図像の成立背景の考察の前段階として、これまで顧みられることの少なかった注文主の経歴の詳細を分析する。

第2章 爵位下賜状、贈答品とダニエル・ド=ナルニアの地位

 注文主ダニエル・ド=ナルニアの来歴は、彼の遺志に基づき一般的な記録からは消去されているが、ヴァチカン図書館裏アーカイヴが記憶を保持している16。よって彼にまつわる記録の殆どは、このアーカイヴに基づく。
 ダニエル・ド=ナルニアのルーツはイタリア中部のナルニにある。祖父アンドレア(1365~1430)は革なめし職人の息子として生まれ、乗馬と魔法の腕を極めたことでコンドッティエーレ(傭兵隊長)となり、魔術大隊を率いて群雄割拠時代のイタリアで暗躍した。しかし富を得た後にほぼすべての記録を抹消すると、一家を挙げてイングランド王国中西部のスタッフォードへと移住した。アンドレアは牧羊を営む傍ら、離合集散が続いていたイングランド魔術師団を「牧羊犬のような強さと軽快さを以て」まとめ上げ、今日にまで至る魔術師団の母体を形成した17
 ダニエルは祖父アンドレアの死の前年、1429年に生まれた。書物に親しむ母エミリアの下で数多の魔法を修得し、若干17歳にしてオーキンツ魔法魔術学校で魔法基礎理論に関する卒業論文を提出し副首席で卒業する。しかし卒業後は魔術師団の学術部ではなく陸戦隊に志願し、イングランド王国の参加した数々の戦争に身を投じた。華々しい活躍と躍進を遂げた彼に対する政治的・軍事的評価は、現代フランスの著述家ミラニューの「魔法界の第一人者(autorité principale du monde magique)」という記述に端的に現れている18。百年戦争と薔薇戦争への出征は、彼の挙げた最も大きな功績とされる。百年戦争では22歳にしてイングランド王国秘密師団の師団長として1452年のボルドー上陸に参加し、フランス軍の撤退の妨害によって戦力の消耗に一役買った。しかしイングランド王国内部での内乱の報せを受け取ると忽ち本国へ引き返し、ヨーク公リチャードの名を受けて薔薇戦争に参戦19、戦時中は1461年のタウトンの戦い、1471年のテュークスベリーの戦いで敵軍の攪乱と妨害に努めたことでヨーク家を勝利に導き、これら二つの戦争における功績によって、1484年、リチャード3世より公爵位(Duke)を授けられた。そのような経歴の中で、本作品の分析と解釈の手掛かりとなるのは、ダニエルが1484年にリチャード3世から得た爵位下賜状である。以下はその内容であり、文中の「司書官」はダニエルの当時の地位である20
 「我、リチャードは、……愛すべき騎士にして司書官ダニエルよ、龍の御名において、世を照らす汝に挨拶を送る。……貴官の高邁な活躍において、以下の様に定める。……イングランドの輝かしき栄光の証として公爵位を授けること、イングランド魔術師ギルドの核たるべきこと。またこれらの証明として、グリフォンの羽根を芯としたα銀とイチイの杖、マンチェスターに閑静なる邸宅を授けること。……ロンドン、マゴーグ教会において、龍の息吹の満ちてより2584年5月15日、ヨーク家のさらなる繁栄とともに。」21
 当時、いわゆる「表舞台」のイングランドの政治に対する介入により爵位を授けられる魔術師は複数散見された。しかし「グリフォンの羽根を芯とした銀の柄頭とイチイの胴の杖、マンチェスターに閑静なる邸宅」という上級の贈答品を受け取った魔術師は他に存在しない。まず杖について、グリフォンの羽根は杖の芯として二番目に希少な素材である(ちなみに最も希少な素材は不死鳥の尾羽である)。これに加え、イチイと銀が組み合わさって杖の素材に使われることは過去に類例がない。まずイチイは、杖の所有者に生死に関わる力を授けるため、イチイの杖に最適な魔女や魔術師は、その強大な力を御することのできる者に限られる22。したがって決して平凡で取るに足りない人物を持ち主に選ぶことはなく、イングランドに存在した魔術師で、この素材を使いこなした者は、歴史上『薔薇の詩』の主人公ダミアーノと、イングランド魔術師団初代団長のアレクサンドラ・スコットの二者のみである23
 また銀は悪魔祓いのために古来使用されてきた素材であり、魔術師が放つ魔法に対しては浄化作用・増幅作用を持つ。例えば百年戦争のボルドー上陸(1452)や英西戦争のジブラルタル包囲戦(1727)では黒銀弓(ANA: Arcus Nigrum Argentum)が使用され、ロンドン攻撃陣から質量変換魔法が放たれた。弓の芯に用いられた銀は黒銀の中でもξ銀と呼ばれ、銀の割合が最も低い(3.5〜3.8%)。銀の純度が高くなるほどその増幅効果は強化され、作用範囲も拡大する。マテリアルとしての作用点が最も遠い事例はアロー戦争直前の広州砲台制圧(1857)である。このときの二地点間の距離は約9500kmであったが、その際に使用されたのはγ銀(42.2~45.4%)を用いた紫銀弓(AHA: Arcus Hyacinthum Argentum)であった。
 さてこれらと比較したとき、ダニエルに与えられた杖で用いられたものはα銀、すなわち純度100%の銀である。直径7mm、長さ2cm程度の円柱状で杖の先端に埋め込まれているが、その増幅率は紫銀の中で最も純度の高いβ銀(45.4~52.5%)と比較して天文学的な規模であり、一般の魔術師は高純度の魔法の「跳ね返り」即ち反動を防ぎきれず被曝してしまい、精神に傷を負い兼ねない24
 これらに基づき贈答品がダニエルにもたらす印象を考察してみると、彼は第一にダミアーノやアレクサンドラ・スコットに匹敵する、またはそれを凌駕する実力の魔術師として周囲には映ったことだろう25。またこれは同時に、イングランド魔術師団内でダニエル自身の実力誇示の手段としても機能したはずである。彼はこの数か月後、魔術師団内で異例の二階級の昇進により最高幹部である執政官(Consul)に就任している。
 一方の別邸については、石井(1990)以降本作品の設置場所として挙げられることはあった。しかしその多くは別邸が注文主の来客用の建物であり、建築・改修時期が作品の制作期間と重なるという理由によるものであり、それ以上の詳しい検討がなされてきたわけではない。そこで本作品との関連性を考察するために、別邸の地理的・社交的性格を詳細に検討したい。
 リチャード3世より与えられた「閑静なる邸宅」こと「ヴィラ・ナルニア」は幾度かの移転を経て現在は一部の魔術師のみにしか出入りが許されておらず、精確な位置を知る者は少ないが、建設当初は現在のマンチェスター大学キルバーン棟からチューリング棟一帯に広がる、東西200m、南北150mを優に超える巨大な邸宅であったとされている。既存のノルマン様式の建物を利用しつつ流行のゴシック建築を附属しており、ダラム城をステンドグラスを嵌めた尖塔が囲むような外観と建物構造をしていたとされる。具体的な建築期間は、リチャード3世の爵位下賜状の言及の他に、同年10月に建築家ファゴット・ローパーが建築に必要な魔法と資材と人材に関する試算表を作成していることや、1486年2月2日に内装工事に携わったダニエルの甥アリステマが全てにおいて完結したと発言していることから、1484年10月から1486年2月の間とされる26。ヴィラ・ナルニアは中庭を囲むように三つの棟から構成されており、一つ目は中庭の西側で南北にのびる棟「本館(Il Maggiore)」、二つ目は北側で東西にのびる棟「騎士の館(Casa del Cavaliere)」、三つ目は中庭の東側に位置する円形の棟「星詠みの棟(Astrologo)」である。作品が設置されていたのは、「星詠みの棟」一階の小さい礼拝堂であったとされる27
 さてヴィラ・ナルニアは、魔術師団本部があるロンドンから遠く離れたマンチェスターの中心地に建てられたわけだが、それはこの地が魔術師という職業上最適だったためではないだろうか。マンチェスターでは気温の変動が小さく雨量が年間を通して多いというその気候的特性からケノンの内省的・瞑想的傾向が顕著であり28、一般世界ではそれらが例えばThe Stone RosesやOasisなどのロックミュージックとして表象している。したがって魔法世界では就学前の魔術師がその素養を磨いたり、魔法学校卒業後の若い魔術師が鍛練のために訪れることが多い。ゆえに多くの魔術師が別邸を構えており、その中には魔術師団の最高幹部や、諸外国の高名な魔術師も含まれている。そういった社会的な渦の最中で、ド=ナルニア邸は所有者の政治的評価のために用いられた可能性が高い。ダニエルの日記を実際に紐解いてみると、週に二日ほど彼はこの邸宅で過ごし、客人との会食や魔術師団運営に関する会合を開いていたようである。このような自宅での催しは爵位獲得後に増え、邸宅の完成後には更に増加している。
 本章で詳しく分析したように、爵位と贈答品がダニエルの地位に大きな影響力を持っていたことは間違いない。次章では、これらの社会的文脈に基づき、前章にて分析した特異な図像は鑑賞に際してどのように機能したのかについて考察する。

第3章 「星詠みの棟」のケセファリス

 第一章にて確認したように、本作品は個人の邸宅の礼拝堂に設置される祈念画の形態で、すなわちあくまで私的な信仰を目的として制作されている。しかし冒頭で紹介したように、本作品が発見されたとき、多くの研究者がおそらくその瀟洒な色使いの画面を見て祭壇画という公的な目的のために制作されたのではないかという判断を下している。それらは後に誤りだと指摘されるわけだが、前章にて検討した邸宅と特殊な杖の存在を加味することによって、本作は祭壇画とまでは言わないまでも、魔術師団の長としての権威を師団内あるいは対外的に誇示するというパブリックな機能を期待されていたのではないかと推測することが出来る。
 筆者はこのような推論の側面を示唆するものとして、一般世界における事例を挙げたい。それは、十五世紀イタリアで小君主国家が造営し豪華絢爛に装飾した、フェラーラの宮廷である。
 1450年10月、コムーネ(自治体)議会によってフェラーラ侯に選出されたボルソ・デステは、大聖堂の鐘楼建設を再開させ、フェラーラ大学を再開し、カルトゥジオ会修道院を造営するなど美術・学芸に対して様々なパトロネージを行っている。その中でも最大の事業は、1465年から70年にかけて行なわれたスキファノイア宮殿の大増築・壁画装飾である。
 スキファノイア宮殿は1385年、ボルソの祖父アルベルト・デステによって建築されたエステ家の夏の離宮である。当初平屋であったが、1465年、ボルソの命により二階が増築され、その半分を占める大広間には69年から70年にかけて壁画装飾がなされた。この広間はその壁画装飾の内容から、「月暦の間」と称されている。それぞれの壁面は柱のモティーフによって分割されており、東壁面は3~5月、北壁面は6~9月、西壁面は10~12月、南壁面には1、2月を表す絵画が描かれている。壁画はそれぞれの月がさらに上下三段に分割されており、上段には各月を司るオリンポス十二神が、中段には黄道十二宮のシンボルおよび各月を十日ごとに司る古代エジプトの神々が、そして下段にはボルソ・デステの日々の生活とフェラーラの街の様子が描かれている。すなわちこの部屋を通じて、オリンポスと古代エジプトの神々からの良き影響を受けながら善政を敷くボルソ・デステという、壮大な占星術的世界観が表されているのである29
 ボルソがこれほどまでに壮大な世界観の下での装飾事業を命じたのは、彼の出自および当時の彼を取り巻く政治情勢が背景にあるとされる。ボルソは父ニッコロ三世が無数といえるほどに抱えた愛人との間にできた三人兄弟の次男であり、先代のフェラーラ候である兄レオネッロにも息子ニッコロがいた。当然父ニッコロ三世にも正妻との間にできた嫡子のエルコレ、シジスモンドがおり、ボルソは法的に継承権がこれら三人よりも下位だったのである。しかし教皇ニコラウス五世とフェラーラ議会の後ろ盾を得て不当に家督を相続したため、ボルソは即位直後から美術品によって後継者としての正当性を誇示したのである30。加えて「月暦の間」の壁画は、ボルソのフェラーラ公爵位拝受を記念する式典のために制作されたとされる。ニッコロ三世は単なるフェラーラ「領主」から「侯爵」へと昇格し、ボルソは爵位を「公爵」へと上げることを悲願とした。当時のイタリア半島における情勢から、教皇パウルス二世がボルソへの「公爵」の下賜を決定したのが、まさに1469年だったのである。71年には公爵位拝受記念式典が開かれ、外国から多くの賓客が集まった中で、「月暦の間」はボルソの「善き君主」としてのイメージを披露するには絶好の場所だったであろう31
 こうした美術品に対する君主たちの出資には「マグニフィケンティア」という概念が通底していた。豪壮な宮殿を造営することで君主あるいはその家の権威や富を誇示することができたので、イタリア半島が平和を享受した一五世紀後半、君主は挙って宮廷を美術で豪華に飾り立てたのである。この時代、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で君主の美徳として論じた「メガロペレイア」が、公共事業とりわけ建築物や美術作品への出資によって支配者の地位を誇示するものとして復活したのだ32
 ここで《ケセファリス》に立ち戻るならば、イタリアを出自としながらもイギリス魔術師団の頂点に立つダニエルの経歴と、それを踏まえた上で本作品が期待された機能が自ずと明らかになるだろう。アンドレアは実力によって「余所者」ながらイングランド魔術師団を結成し、その血を引くダニエルはイングランド人の魔術師たちを退けて、ボルソ・デステ同様「不法に」魔術師団内で地位を勝ち取った。その過程では少なからず禍根が生じただろうし、ダニエルもまたそれを知った上で、己の力の誇示に努めねばならなかっただろう。そこで彼が採用したのが、マグニフィケンティアの実践である。やはりというべきか、出自をイタリアに持つド=ナルニア家はイタリア各地の魔術師との交流を残しており33、ダニエルは彼らとの交流の中で世俗の君主の思想の動向を鋭敏に感じ取っていたに違いない。彼は実力で公爵位を勝ち取ると同時に、金銭を惜しみなく出資し、高価な顔料をふんだんに使った絵画を制作させた。そしてその作品は、彼が国王から直々に賜った別邸の、応接間の隣の小さな礼拝堂の中に、非常に強力な杖と共に展示されたのである。高価な顔料によって彩られた本作品は礼拝堂で真っ先に目を引き、美術に疎いイングランド人を圧倒したに違いない。第一章にて指摘したダミアーノの不在は、杖の存在と相まって、寧ろダニエルにダミアーノとの重ね合わせを惹起したことだろう。本作品はそれ単体でダニエルの経済力・感性の豊かさを象徴するとともに、別邸に設置されることで彼の威厳を十分すぎるほどに表したに違いない。ゆえに本作品は、絵画を通じた私的な観想のみならず、他の魔術師たちへのアピールといったパブリックな機能も含んでいたと考えられる。
 以上の検討から、ダニエル・ド=ナルニアが《ケセファリス》に、自身の威厳やステータスの誇示、さらにはそれに伴う政治的効果を期待していた可能性は極めて高いと考えられる。付け加えるならば本作品は魔術師団内で非常に効果的に機能していたとみられ、ダニエル以降五代に亘って、ド=ナルニア家出身の魔術師が執政官を世襲している34。彼らもまた例外なくヴィラ・ナルニアで過ごしただろうし、本作品もその過程で彼らが執政官たる正統性を補強したことだろう。

おわりに

 以上、《天界より見下ろすドラゴン・ケセファリス》に期待された機能について、図像、注文主の経歴、イタリアの世俗君主の事例を元に検討した。図像と顔料の分析からは、本作品が単に私的な祈念画としてだけではなく、公的な絵画としての一面の片鱗を見せていることが明らかになった。また注文主の経歴の分析によって、マグニフィケンティアの実践という、同時代のイタリアの小君主との共通点を見出すことが出来、これによって本作品の公的な絵画としての側面は殆ど揺るぎないものとなっただろう。
 しかしながら今回の議論は作品と注文主という、作品を取り巻く周縁の関係について言及するにとどまっており、作品の核心を突く議論は展開できなかった。本作品の制作を手掛けたピエトロ・アレッツィの研究は不完全なところが多く、作品と制作者の間の関係性は体系的な研究が希求されている。また、イギリスに現存する魔法絵画自体が少ないため、様式研究に基づく魔法絵画の潮流についても深い議論がなされていないのが現状である。
 今後はアレッツィという作家研究に焦点を絞っていくことで、イングランドの魔法絵画における本作品の位置付け、ひいてはヨーロッパ魔法絵画史における本作品の位置付けを明らかにしていくことができるだろう。

【註】
1 額縁に添付された純金製のプレートには’Kesepharyss’とのみ記載がされているが、同主題を扱う絵画作品との混同を避けるべく、このときの調査で新たに名前が付けられ、カンヴァスの裏面に’Kesepharyss: The Dragon looking down from Heaven’と刻印された。

2 一般的に「竜の福音」が最古のドラゴン信仰を証明するものとされるが、Becket(1995)やKreuts(1999)は1982年にアッティカ地方で発見された紀元前2世紀頃の石板群Q102〜109に度々登場する「大蛇(ΔΡΑΚΩΝ)」をドラゴンの証言の最初としている。しかし研究者の多くはこれをアリストテレスによる『動物誌』で言及される「有翼の蛇」から引用されたものとみなしており、これら石板が信仰を示す最初期の証拠であるという確証は得られていない。

3 ジョン・スキャンター,長島巌訳(1978)『中世魔法師詩歌集3 薔薇の詩』(花園文学社)pp.13-16. なお「東からの大群」とはカエサル率いるローマ軍を指し、その艦隊の損害をダミアーノの大規模魔法によるものとする研究もある。対象箇所については、カエサル,近山金次訳(2019)『ガリア戦記』(岩波書店)pp.160-161、173-175参照。

4 石井秀隆(1990)「イングランド魔術師団所蔵《ケセファリス》の来歴をめぐる一考察」『魔法美術史』180(255)pp.38-42.

5 Martin Einzman, The history of Index Librorum Prohibitorum in magic-painting studies, New York, 2010, pp.23-27.

6 1968年に大英図書館裏アーカイヴより出土した、ケンタウロ(1530)『魔術絵画の技法』(大庭汀訳)では、魔術絵画には「人と龍の調和」が通底しておらねばならず、ダミアーノを描いていない本作を「亜流(derivatio)」だと評している。

7 石井(1990)前掲論文,p.55.

8  “Dieses Gemälde …könnte Teil eines Altarbildes sein, das in einer ehemaligen Kathedrale in Großbritannien angebracht war.” Bericht über eine Untersuchung der Gemälde in der Kollektion der Yardbird Kathedrale. Vienna. 1889. p.55.

9 ハルモニウスは作品の来歴についても多少触れ、このように述べている。「様式の連関を顧みると、この筆致がイタリアの画家であったルカ・ゼフュロッリによることは疑いようもない事実である。…..この作品は幾人かの手に渡ったことだろう。しかし最終的にイタリアに交流のあった者がイングランド魔術師団に持ち込んだに違いないのだ。」“Betrachtet man die stilistischen Verbindungen, so besteht kein Zweifel, dass die Pinselführung von dem italienischen Künstler Luca Zepyrolli ist. … Das Werk kann durch mehrere Hände gegangen sein. Es muss jedoch schließlich von jemandem, der Kontakte nach Italien hatte, in das Magisterium in England gebracht wurden sein.”Franz von Harmonious, “Memorandum über italienische Gemälde von einer Reise nach England.” in M. Einhorn et al., Studien zur magischen Malerei im Mittelalter II, Köln, 1914, pp.244-245.

10 石井(1990)前掲論文,p.27.

11  Scott.K.Duestein(1993). ‘Identify the tableau of Kesepharyss: in the viewpoint of genre and place’. ArtesMagicae. 125(5). pp.44-45.

12 鷹島弥生(2007)「ルネサンス期魔法絵画作品群における顔料・モティーフと保存状況の連関」『魔法化学史研究』12(38)p.133.

13 マイケル・バクサンドール,篠塚二三男ほか訳(1989)『ルネサンス絵画の社会史』(平凡社)pp.23-27

14 鷹島(2007)前掲論文,p.144.

15 バクサンドール(1989)前掲書,pp.34-37.

16 アーカイヴの記憶開示には大変な労力を要した。イタリア魔術師団学術部のレオナルド・ヴェスプッチ氏とメリージ・アルベルティ氏に感謝申し上げる。

17 記憶記号E-1420/ap10/9775,名称「アンドレア・ド=ナルニアの生涯」。

18 ミラニューは、G. Millagnut,Les grands sorciers de l’Europe II: le militaire, Paris, 1922, p225.において以下のように評している。「この司書官は……戦争であれ、法務であれ、財政であれ、すべてを杖を振るがごとく操った。あらゆる面で師団は彼を頼りにし、魔法界の第一人者として全面的に信頼していたのだ。……」“Ce Bibliothecarius …manoeuvrait tout d’un coup de baguette, qu’il s’agisse de la guerre, des affaires juridiques ou des finances. À tous égards, l’organisation comptait sur lui et lui faisait entièrement confiance en tant qu’autorité principale du monde magique…”同様の評価は、ドイツの歴史家ヨハン・ガンツにも見られる。J. Ganz. Geschichte der Hexerei in Großbritannien, Berlin, 1958, p.183.

19 当時の歴史家スランバー(1477)は著書『イングランド王国における魔術師団の変遷』において、「結果的に彼の離脱がイングランド王国軍の戦力を大きく削ぐこととなり、フランス軍の防御陣地を崩せなかった」と評している。

20 当時の魔術師団の運営については、松坂真之介ほか(2015)『ヨーロッパの魔術師団の運営と盛衰の歴史』pp.97-126. を参照。

21 “ I, Richard, …… O Daniel, beloved knight and librarian, in the name of Dragon, send greetings to thee who illuminate the world. I, …… in your lofty exploits, shall set forth the following. That you shall receive a Dukedom as proof of England’s glorious glory, and that you shall be the heart of the English Order of Magicians. And in provance thereof, you shall receive a staff of silver and yew, with a griffon’s feather at its core, and a quiet manor in Manchester. In the Church of Magog, London, from the fullness of the Dragon’s Breath, 15 May 2584, may He bless the York family to be even more prosperous.” British Library Behind-Archives. C-1484/ma15/0032,名称「ダニエル・ド=ナルニアの生涯/爵位について」. 他アーカイヴからの引用も同様に、邦訳と解釈に際してクリスティナ・ムナカタ氏にご教示いただいた。ここに感謝申し上げる。

22 ギャリック・オリバンダーの手記より抜粋。 https://www.wizardingworld.com/writing-by-jk-rowling/wand-woods

23 Cornelius Hesse, Magic and Silver, Heidelberg, 1977, p.47.

24 魔術師が加担した戦争と銀の使用の歴史はAlfred Grafton, Magicians in War with Silver, Liverpool, 2005を参照した。また銀の純度とランクはHesseによる前掲書を参照。

25 実際ダニエルは爵位授与三日後の日記で以下のように記述している。「……(爵位を得て)三日目にしてようやく落ち着いた。流石にこんなことは口が裂けても公に言えないが、実際昨日と一昨日は不埒な奴らを相手にするので精一杯だったのだ。……風向きに対する敏感さはその道の魔術師以上の精度だろうが、彼らにはつくづく閉口する。」(Three days after it has finally calmed down. Although I can’t say this publicly, in fact, yesterday and the day before I was busy dealing with the intemperate bastards. …The sensitivity to the wind direction is probably more accurate than that of wizards, but they are really a pain in the ass.)British Library Behind-Archives. C-1484/ma18/9723,名称「ダニエル・ド=ナルニアの生涯/史料/日記/1484年」.

26 ダニエルの別邸について、規模と建築経緯はBritish Library Behind-Archives. F-1484/se20/0742,名称「ヴィラ・ナルニアの建設経緯」を、外見は F-1486/fe02/1679,名称「ヴィラ・ナルニアの外観・内装」を参照した。

27 石井(1990)前掲論文,p.36.

28 気候とケノンの相関については以下の資料を参照した。Cathaline Ginzburg, et al. Tendencies between Kenon and Geography, London, 1988. p.205.

29 小佐野重利ほか(2016)『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ 百花繚乱のイタリア、新たな精神と新たな表現』(中央公論新社)pp.341-343.

30 小佐野ほか(2016)前掲書,pp.340-341.

31 小佐野ほか(2016)前掲書,pp.340-341.

32 当時、君主は金銭の支出を伴う行為によって自身の威厳を表す必要があるとされた。これらの行為は二種類に大別され、マグニフィケンティアはそのひとつである。もう一つはリベラリタス(気前の良さ)であり、これは臣民への施しを指すものであった。小佐野ほか(2016)前掲書,pp.313-314.

33 松坂ほか(2015)前掲書,pp.44-58.

34 松坂ほか(2015)前掲書,pp.64-65.

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